保健室への進言をしてさっさと立ち去るつもりだったのであろう彼は予想外の言葉にうろたえたのち、おそるおそる僕に肩を貸した。
「き、キモオタが側に寄ってごめん……臭かったら言って、ア〜〜〜〜ッ! いやだめ、やっぱ言わないで、心の奥底にしまって、拙者のガラスハートがブロークンしちゃう。お願い」
「別に臭いませんよ。むしろ僕の方が汗ばんでいるんですから謝るのはこちら側です」
「ン、でもそんなに……」
スル、と僕の腕を掴んでいた手をすべらせて運動着から唯一露出している手の甲を手繰り、鼻に近づける。え? 何してるんですかこの人?
「ウーン、変身薬でつくった身体じゃあ汗腺があまり発達してないのかな。肌びっくりするほどすべすべだし、だから放熱しづらいのか。メラニン量もだいぶ少なそ。紫外線にも弱いだろうし……」
自分のものでない指先が手の甲を撫で、ぐにぐにと揉み、軽く皮を伸ばす。ぞわりと肌が泡立ちたまらず抗議の声を上げる、がこの好奇心以上の優先順位を持ち合わせていない彼からは生返事が返ってくるばかりである。疲れ切った身では手を振り払うことも叶わずそのまま、よりぐったりとした身体で近場の空き教室に運び込まれたのだった。
「疲れた……」
僕もです、という恨み節を堪える。幸いなことに自分のせいでぐでんと机に突っ伏す死体に鞭打つほど無慈悲な男ではないので。あとまあ、変にちょっかいを出して僕が異様に重かった、なんて言い訳をされた日には海の魔女に倣った流石の慈悲の心も蒸発するというもの。
「オルトを呼べばよかったんだけど、今なんだか他の子と話してるみたいだったから邪魔、したくなくて」
息を落ち着けて、ちらりと顔をこちらに向ける彼の額には普段ふわふわとまとっているはずの青い火がへばりついていた。どきりと妙に心臓が跳ねる。
「でもアズール氏、マジでヤバそうだし念のため具合診てもらおうか」
「……え、あ、だ、大丈夫です! お構いなく。これ以上他の方に借りをつくりたくはないので」
「いや借りって……ア、なに、もしかしてこれも『借り』なワケ?」
「もちろんです。当然、後ほど返済させて頂きますからね」
「なんで借りた側が高圧的なんですかね……や、いーってほんとに。別に君のためじゃないし。この僕とボードゲームで渡り合える貴重な脳ミソ、ただのプルプルのタンパク質なんかにしちゃったらもったいないでしょ」
まあ普段のあなたなら、僕がボードゲーム部員ではない一般生徒であれば素通りだったでしょうね。この無類のゲーム好きの性が嬉しくもあり、少し気落ちするようでもあり。
「ですが理由がどうあれ僕を介抱した、という事実にはかわりません。対価を支払わねば」
君も大概めんどくさいヤツだよねぇ、とため息をひとつこぼしたイデアさんは観念したような動きで手を差し出してきた。
「財布ある?」
「え? 後輩から金銭を御所望なんですか…?」
「違うわ‼︎」
彼にしては珍しい剣幕でキレられた。
「これ以上借りつくりたくないんでしょ。でもとりま水分は摂らなきゃだからアズール氏の財布からお金出してペットボトル買ってくる。それでいい?」
「ああ、なるほど」
お願いします、とポーチの中の小銭入れを渡す。まもなく、イデアさんが両手に飲み物を持って帰ってきた。
「財布トンクス」
「ん? あ、いえ、こちらこそ」
彼の使う独特なスラングは、頭にするっと回るまでまだ幾らか時間を要するなと思う。
「はいこちら、いたって普通のスポドリ」
「ありがとうございます」
「で、こっちは君の奢り。介抱のお代。ハイ精算」
は? とつっかかりかけた言葉は、プルタブを開ける小気味良い音に打ち消されてしまった。
カシュッ。しゅわ。ぱち、ぱちぱち。
「あわ」
「あわ?」
「泡、の音がします」
「……そりゃまあ、炭酸ですから」
モストロラウンジとやらでも取り扱ってるだろうし、初めてじゃないでしょ? と小首を傾げた彼は、そこそこ大きな五百ミリリットル缶を静かに揺らす。しゅわぁ。ぱち、ぱち。再び無数の泡が浮かび、薄い金属の円柱の中、不思議な響きを反している。海では聞いたことのない、水がこまかに跳ねる音。ここちのよい、おと。
「缶飲料の炭酸は初めてなんです。こんな見た目から存外、きれいな音がするものですね」
「あー、確かにペットボトルやグラスなんかじゃこうは響かないか」
イデアさんは缶を勢いよくあおったのち、今度は僕の耳元でくるくるとそれを揺らした。すぐ近くに感じる手の気配が、ふわり僕の髪をかき混ぜる微風が、変に緊張する。先ほどよりもワンオクターブ高く、泡が弾けた。
「うん、安っぽくってけっこういい音。陸もまあ、存外悪くないでしょ」
「……そう、ですね」
この人はたまに察しの良いところがあって怖くなる。最初の頃は僕をキラキラ陽キャ呼ばわりしてろくに目も合わせなかったくせに。
水の流れに合わせて音もゆらぐ。同調するように、身にくすぶる熱が凪いでいくようだった。揺蕩う意識の中に、手元のスポーツドリンクの結露がポトリ、水滴を落とす。自分の喉が随分と乾いていたことに今更気づいた。
ようやくその蓋をカチリと開けて、一息で半分飲み干す。爽やかな甘じょっぱさ。ここちのよい、みずのあじ。
「……ところでそちら、初めて見る飲料です。こんなもの学園の自販機に並んでいたんですね。ええっと、マジカル……」
「マジカルペッパー。通称マジぺ。拙者のガソリン。その頭脳を認められし者のみが口にできるスマート飲料——と言ったところですな!」
何故だか自慢げなイデアさんに、ほう、と俄然興味が湧く。言ってる意味はよくわからないが、彼の愛飲とくればもしかしたら脳の働きにブーストをかけてくれる代物かもしれない。なので、
「一口頂けますか?」
「ッハァ⁉︎」
今日一番の彼の面白い顔を目にして、思わずふふっと口元に指を添えて笑ってしまう。
「いやいやいや拙者と間接キ……オエッ口に出したら鳥肌で死ねる。とにかくばっちくない? あとでイデアくんの隠キャ菌がうつりました〜とか言われても責任取れないし。正気?」
「そこまで陸の人間は気にするものなんですか? 教室内ではわりとポピュラーな行為かと、見ている分には思いましたが」
休み時間のワンシーンを思い返す。飲み物をシェアする同級生はさも気軽そうに口をつけていたはずだ。
「う〜んパンピー論……ンむ、いーや、ほらでもこれ一応お代でもらったヤツなんだからさ」
「それが対価だなんて僕は認めてませんよ」
「エッそこ振り出しなの⁉︎ 顧客が満足してるんだからよくない⁉︎」
「よくないです。僕、自身が提供するサービスには誇りを持ちたいので」
「ひ、ヒエ〜……弱冠十六歳の発した言葉とは思えな……いやいやその営業理念はご立派ですけどね? 他人との間になんかがある状態が拙者はめんどくさいの。さっさと解消しちゃいたいワケ。おわかり?」
「理解はしましたが承諾は致しかねます」
「このわからずや〜〜ァ!」
僕の強情加減にイデアさんが天を仰ぐ。あなたこそ頑なじゃないですか。はいはいそーですね。黙って対価を受け取るだけでいいのに。それがなんか嫌って人間もいるの。面倒くさいですね。この状況がね。——投げやりな応酬が続いてゆく。
この個人主義者らの蠱毒のような学園の中でも、ことさら我の強い二人。譲らぬ主張がひたすら平行線を描いた先に、イデアさんはふらりと教室の外に出て行ってしまった。
「……あ」
怒らせて、しまっただろうか。
つい熱が入ってしまって、助けてもらったのはこちらなのに、人から『借り』をつくった焦りで気がせいて……ああまったく、悪いクセだ。
きっとあなたは僕を侮ったりはしないのに。
その瞳の奥を覗いた日を思い返す。
金の瞬きがまっすぐに僕と、その影の形を映し出したこと。周りの色に染まることのない、自ら光る恒星。その輝きが強ければ強いほどに世界の色を跳ね除けて、けれどその孤独ゆえにただの『僕』を見留めてくれた人。
ねえ、本当は、
あなたに見つけてもらって助かりました、とか、傍にいることを許されて嬉しい、だなんて甘えられるような関係だったらまあ、良かったんですが。
生憎と僕ら、部活の先輩と後輩なもので。
すっかりと冷め切った身体で、再び床の上を見やる。青い火の粉は何も跡を残さない。もう僕を介抱する、なんて理由もない。手の甲で感じたささやかな温度が離し難くて、自分の指を重ねてみて、やっぱり違うなと思う。存外熱を持った、カサついた指の腹。掌を日に透かせばきっと赤い血潮が流れている、人間。
ぱちり。
音。
ぱちぱちと、炭酸の いや——?
「ひゃあああっ⁉︎」
「ブフッ! あ、アズール氏のそんな情けない声初めて、ひ、ひひひ!」
唐突、首筋にキンと冷えた何かを当てられて背中が総毛立った。慌てて後ろを振りかえり——え、ちょっと、ちょっと待ってください、近い。近すぎるし、その上——
ざまぁないですな! と破顔した姿が眼前にあって。それは流石に、ねえ、あの、ずるくないですか? 反則勝ちなんじゃないですかこれ? いやかれこれあなたと出会ってからずっと、僕は負け続きなわけですから何はともあれ「負け確」というやつですが!
今日の「初めて」をすべてかっさらっていったその笑顔が憎い。あー……いえ、嘘です、すき、です。ええそうです、ただただ好きですよ、あなたのこと。
実のところ、彼からの『借り』を返す手立てなど僕にはないのだった。昨日も今日も、きっと明日も生涯支払いきれないほどの価値を与えられてしまう。彼の指が触れたすべてはその価値をいっそう華やぎ、彼自身の手の内から芽吹く幾多はこの世界に初めて咲いた価値。それは悔しいけれども、確かに「天才」だとしか形容しようがなく……世界の美しさを、よくよく知っている人。だからこそ自身の美しさが見えない人。
ねえ、僕がなりふり構わずあなたに好きですと、大好きですと声を上げ続けたならば少しは、御自分の美しさに気づいてくれるのでしょうか? ……はぁ、もう! というかいい加減、少しくらい気づいてくれればいいんじゃないですか?
ぐるぐるぐると、長らく自分は彼の笑顔に目を回していたらしい。ふと気づけば手元の温くなったスポーツドリンクが冷え冷えのマジカルペッパーの缶にすり替えられていた。
「えー、っと……なんですか、これ」
「嫌がらせ」
「……ご褒美では?」
「そう思うんならせいぜい拙者が満足するようなお代を用意するの頑張ってよ。これ僕の奢りなんだからさ」
よろしくね、と皮肉混じりの笑みに頼まれてしまえばもう、先ほどからにやけまいと精一杯口を閉じているだけの僕には黙って首を縦に降ることしか許されなかった。ずるい。あまりにもずるい。レギュレーション違反の笛の音が僕の頭の中でビービー警告を繰り返す、が本人の耳には虫の羽音ほども届いていないのだろう。不毛極まりない心中に目頭が熱くなった。
それでもイデアさんからもらった缶を撫でさすると再び、臓腑の裏側がこそばゆくて堪らない。ああもう感情の収集がつかなくなってしょうがない。不毛で、面倒臭くて、かき乱されて、でもそれら丸ごと愛おしく思えてしまう、だとか。あんまりにも僕らしくなくって笑ってしまう。
「ん、どしたの? やっぱ病み上がりに炭酸はキツいか」
「ッいえ! 全然そんなことはない、です、あ、ありがたく頂きます」
嬉しさのあまり完全に時を忘れていた。慌てて飲もうとすると汗と水滴に塗れた掌のせいでプルタブには爪が引っかかるばかり。どうにもこうにも今日は格好のつかない日らしい。何度目かのリトライの末ようやく、指の先に音を感じた。しゅわしゅわ、とかすかな感触に胸躍る。
乾いた唇を飲み口につけて跳ねる泡を楽しみつつ、そのまま先ほどのイデアさんに倣いグイと缶を勢いよく傾けると、
「ッ……ぷはッ……ゔ、な、何味なんですこれ⁉︎」
あまりの不味さに耐えきれず、缶をベコリと握り締めた。
鼻腔を駆け抜ける独特な——いや本当に独特な風味でなんと形容していいかわからない。なんらかの薬くさい、ハーブくさい、ことだけが脳内にダイレクトに伝わる。嫌なほどに。後味が尾を引いて口内を蹂躙しまくっている。変身薬でも入っていたかと思わず下半身を確認するが、二本の脚は変わらず地を踏み締めていた。
「ひひっ、ナイスリアクション! 嫌がらせって言ったじゃん?」
「いやあなたッ……よくもこんなものが飲めますね……」
正直、今後の人生の中で二度と口には含みたくないくらいの衝撃があった。のだけども、
「アズール氏は『認められし者』ではなかった、ということですな〜」
その一言でなんだかカチンと来てしまった。
無言で凹んだ缶を握り直し、再びあおる。一気に流し込んでしまえばどうということはない……はずが、ここで炭酸の存在が憎たらしく妨害してきた。腹をかき混ぜるガスに一時撤退を余儀なくされる。
「い、いやアズール氏、無理して飲まなくていいよ、全然捨てて?」
自分では真顔に努めていると思っていたが、わりかし嫌悪の表情を滲ませてしまっているらしい。食べ物に対する身体の反応は本当に素直だ。先ほどまで腹を抱えてげらげらと笑っていたイデアさんが一転おどおどしながら気にかけてくる。
「……僕の頭が足りないから、スマート飲料とやらが飲めないと?」
「ハッ⁉︎ まさかソコまともに気にしてたの⁉︎ え、えっとぉ……その、それは単に拙者が愛好するアドベンチャーゲームの主人公のセリフを真似した、だけ……だから、あのさ、やめて? オタクスラングをこんな風に掘り起こして説明させないで? 羞恥プレイですぞ?」
要するに、いつものイデアさんの戯言だったというわけだ。
「っていうかあんな名作を知らないとかマ? 今度貸すから絶対やって……あ! じゃあじゃあそれがお代ってことでおk? ハ〜解決解決。拙者ってばナイスアイデア〜」
「え? ええまあ、お望みとあらば」
話の流れのまま借りの返済方法も押し付けられる。普段の部活でも賭けたゲームに負けた際には彼の「布教」を受け入れる約束事を時々交わしているが、それと変わらなくなってしまった。ゲームとなると長丁場なことが多いのでここぞとばかりに勧めてきましたね、まあ何でも構いませんが。顔を綻ばせながら「推し語り」をしてくるあなた、とってもウザかわいいので。
「だから、それ捨てていいよ」
イデアさんが指差した先。僕は未だ元気よくはぜる泡に、缶の内側が叩かれるのを掌で感じていた。
ひと呼吸。それでも、と呟いて彼の目を見据える。
「それでも、あなたに頂いた対価ですから」
残さずたいらげたいのです。ほら、僕って見かけによらず強欲ですので?
……まあそうは言っても現実問題、膝に鎮座なされるこの缶の中身はまだ五分の一ほども減っていないわけですが。
「そのさぁ、君のいじっぱりなとこ、ほんとお馬鹿だなあって」
ひょい、と突然僕の手の内をすり抜けて、斜陽を反した缶が宙に浮く。
「ま、見てて面白いから嫌いじゃないけど」
彼の気怠げに伸びた袖が飲み口をひと撫でしたのち、こくこくと、しゅわしゅわと、嚥下する音。真白く晒された喉が夕暮れに染まって、色濃くついた影の形が上下する。その小さな動きを、じっと見つめる。
あの、もしかしてこれは、と思う。
こうやって目の前で行われると、僕の提案時に彼が狼狽していた気持ちが痛いほどわかった。いやまあ彼にとっては違う理由であっただろうけど、とにかくそれくらいの衝撃をもった行為。
僕は哀れにも無骨に恋する一男子高校生なわけで、この持て余す感情を前にした迷える子羊なわけで、こんなささいな出来事ひとつがビッグイベントになってしまうくらいには、あなたに参っていることを改めてひどく思い知ってしまって。
教室はいつの間にか真っ赤に暮れなずんでいた。危なかったな、なんて火照りがぶり返した頬をつねりながら思う。うん、この顔は流石に見せられたものではない。
今日初めて知ったこれが、きっとそう、あなたの言った「間接キス」とかいうものなのでしょう。
「ウゲェ〜ッ! 流石に炭酸きっつ⁉︎ ゲップ止まらんっすわ、ゥプ……」
……なんか袖で拭かれてましたけど!
log : 2021.07.27