遠く、冗長に、四つ叩かれる鐘の音。この茹だるような暑さの中では音の響きさえもぼんやりと溶けてしまう。そんなこと海ではありえないのにな、と浅く息を吸った人魚、アズール・アーシェングロットもぼんやりと思った。
この学び舎に迎えられて一年足らず、自分には不似合いなセンチメンタルがようやく、弱音とともに漏れ出でたのだった。
夕暮れから射す赤色を避けて、石造りの柱へともたれかかる。暗くて、冷たくて、硬い。懐かしい、僕だけの居場所を思い出す。
「あんしん、する……」
ひんやりと、自身の背中から温度が逃げていくのを感じるが依然動悸は収まらない。正直この仮初の脚に長距離のマラソンはこたえた。人魚としての身体的ハンデを申告すればあのバルガス先生でも対応を一考してくれたかもしれないが、しかしこの僕が他の生徒たちよりひとつでも劣っている所がある、などと口が裂けても認められようか。実際にほら、獣人らには及ばずとも平均より少し早いタイムは残して、
「このザマ?」
ぱちぱち。ぱちり、ぱち。
まっすぐに降る陽の光が、ゆらゆらと深海を映した火を透かす。
「項垂れブツブツ不審者乙~。まァ拙者が言うのもなんですが」
ひひひ、と窮屈に丸まった肩が揺れ、火の粉がまばらに散る。この奇妙な笑い声も、もうすっかり耳に聞き馴染んでしまったようだ。視線は床で弾ける火の膨らみをうろうろと追うがまま、目の前の人の名を呼ぶ。
「イデア 、さ……」
「あんな前時代的コスパ最悪脳筋授業、無理してもメリットなんかないと思うけどね」
ぶっきらぼうに言葉を続けられたのち急に、じゃあ立てる? なんて柔らかな声が頭上からかけられる。馴染まない、初めて耳にする声。驚いて顔を見上げると、瞬き、目があってすぐに反らされた。こんな明るい陽の元で引きこもりがちな彼と偶然会うことは珍しく、なんだかドギマギとしてしまう。ほら早く「はい」と一言返事をして立てばいい。それで、それだけで終わるはずだったのになぜかその時、僕の喉は浅く熱い息を漏らすだけだった。
イデア・シュラウド。嘆きの島のシュラウド家の子息。魔導工学の申し子。異端の天才。特筆することは多々あれど——まあ有り体に僕との関係のみを述べるならば、単なる部活の先輩だった。
目に見えてわかりやすいようでいて、時々何考えてるんだかさっぱりわからない、その青い火のごとく掴めない人。入部してひと月の頃は彼の弟、オルトさんの影に隠れて例の宙に浮かんだタブレットだけをこちらに寄越していたな、とそんなに懐かしくもない光景を思い出す。初めてゲームをした日はいつだったか。いつの間に盤を挟んで向かい合い、初めて彼の瞳の奥を覗いた日。きゅっと意地悪く歪んだ輝き。その日を境に打って変わって無遠慮に僕をゲームに誘うようになった。週に数時間ゲームをともにするだけの、けれどなにやら妙な懐き方をされている気がする、部活の先輩。
「……あー、拙者に心配される筋合いないよね、こんな陰気な呪われたヤツに話しかけられる方が具合悪くなるっていうか〜……スマソ。もう行きますわ」
聞きなれた早口にぼうっと耽っていた意識を引き戻されれば、すでにUターンする彼のパーカーの裾が翻っているところだった。
「ち、ちがいます、違うんです!」
慌てて引き留めると、イデアさんは訝しげにこちらを振り返る。ほっと胸を撫で下ろしーーなぜ彼を引き留めたかを考えねばならなくなった。
無理に立とうと思えばそれくらいはできたのに。こんな情けのない姿を他人に見せるわけにはいかないのに。けれども身体がひどく重いのも事実で、それに少し、もうちょっとの間だけこの、深く透ける青を眺めていたいような気が
「えっと、たてなく、て」
どうしてだかこの先輩には弱みを見せるより、沈黙の理由を悟られる方が嫌だったようで。
ああ、なにやら自分も彼に、妙な懐き方をしているらしかった。