真っさらに滲みひとつ

 くふ、と甘ったるくて生温い吐息が漏れる。ほんと、こんな青っちろい口から漏れたなんて信じられないくらいのやつ。恥ずかしさに下唇を噛んだらそろ、と熱い舌で舐められた。あ、もう、いい加減にしよって言ったのに。ばか。
 んふふって、今度はまたなんとも間抜けな息が鼻から抜ける。滲んでは漏れ出でる嬉しさを隠そうとしたってまったく、無駄な足掻きなのだった。君の子犬みたいに甘える舌に、観念して口を開けた。
 狭いシーツの上のふざけあい。一刻一刻、かたちを波打たせては肌に吸いついて、柔っこくて、色のない優しい海。足を絡めあって、もつれあって溺れる。男のからだがふたつぶん。浅く、でもひとりぶんよりは深く沈み込んだそこにはまりこんで、あんまりピッタリフィットなもんだからそのまますっかり出られなくなって。あーもーなんか、からだでろでろになってさ、ベッドにくっ付いちゃって……
「っひひ、ひ! 足の裏は反則……っ」
「先に僕の脇腹にちょっかいかけたのはあなたでしょう?」
「だってアズール氏のおなか、ぷにすべだからついつ……ひ、ひひひ! 待って! タイムタイム!」
 ちょっとこのタコちゃんほんと足癖わっるい。
 水面下のあどけない攻防戦を咎めるように、きれいな光がカーテンのあわいから漏れてやっと「お腹が空きましたね」なんて、優しいおはようの合図をする。ふんわり笑う君。弓形に持ち上がったまつ毛の影をぽけーっと追う。なんか、幸せすぎてこれまだ、夢なのかなって思うんだけど、どっちだろ。ね、アズール氏、どっちだと思う?
 依然幸福にぼやけた頭はもうただ、まん前の愛おしい輪郭をなぞるだけの働きしかしてくれなくて、痺れを切らした君は隙ありとばかりにひとつ唇を合わせてから「何がいいですか?」って追撃にかかった。虚を衝かれて目を見開くと、至近距離に広がるスカイブルーに目が覚める。日の光なんかより鳥のさえずりなんかより、パッと素早く瞳に飛び込む僕だけの朝だった。
 僕の一日、青空を拝むよりきっと、君の青を覗く時間の方がずっと長いんだろな。まあそもそも朝、起きないし、外、出ないし……またぼうっとまとまらない思考を遊ばせていると、目と鼻の先のかわいーお顔が少しむっとしてからまばたきをする。彼の大変長いまつ毛が僕の頬にしぱしぱとあたってくすぐったい。ひゃ! と声を上げて、堪らずベッドに潜り込む。まだもぉちょっと、なんて思いの外甘えた声が出てしまって、余計にぎゅっとタオルケットを握りしめた。
 アズール氏はもういそいそと温もりだけ残してベッドを後にしたみたい。シャーッとカーテンを開けるレールの音。でもそのまま、窓は開けない。僕がどんどんタオルケットの奥に引きこもっちゃうこと知ってるから。そうしてレースカーテン越しの優しい光を背負ってすぐ、僕のもとに帰ってくる。
「今日は天気がいいですよ」
「関係ないよ、休みだからって外なんか出ないし」
 そう言わないでと、丸まった僕の背に手を潜らせてタオルケットごと持ち上げる。物腰柔らかな言葉を裏切って力で言うこと聞かせがちな腕に、抗議の意を込めて顔をしかめた。自身の貧弱な腕で抵抗しても哀しいかなノーダメなので。
「ほら観念してください。いつまでもタオルケット被ってないで着替えて」
 そんなこと言うアズール氏だってまだパンツだけルックのほとんど裸で、眠気まなこを擦りながら左手越しに恨みがましくねめつける。とうっかり、丸出しになってる肩口あたりの赤い噛み跡に気付いてしまって、恥ずかしさと申し訳なさとに目を逸らした。
「……あ、あっち向いてて」
「なぜです?」
「服、着てないから見られるのやだ」
「何を今さら」
「明るいと、なんか、色々バレそうで、やだ……」
 俯く。
 しばし降りる沈黙に、ワード選択間違えたかなと少し焦る。でもほんと、いつ君に気付かれちゃうかってこっちは毎度ヒヤヒヤしてるんだから見逃してってば。このぬる〜いお湯みたいな時間がどうにも離し難くって、もうここ一年ずっと、毎日誤魔化し続けてる。君の優しさに甘えて、内緒にしている。こんなヤツの手本当は今すぐ離した方がいいってこと。
「僕、あなたと出会ったとき」
 パイル生地のドレープに隠れて、君の動く口元を覗いた。
「入学式にチラと青い光を見かけただけですけど、でもきっとそれが、」
 一目惚れだったんだと思います、とアズール氏はティーンのクサすぎる告白を唐突に大真面目に吐いた。ヒェ。この男、そういうとこあるんすわぁ……面食らって固まっているこっちはお構いなしらしく、影を透かしたタオルケット越しに君は「まるで」と言葉を続けた。
「かみさまが、ひとのかたちを持ったものだと」
「……なに、それ」
 大仰な形容に、逆に気が抜けた。
「人魚ジョークとか? それともお得意の太鼓持ちのつもりですかな?」
「いいえ? まさか。ただそう思ったという事実ですよ」
「だよね、神さまなんてそんないいもんじゃないし」
 告白に対する僕のぶっきらぼうな物言いに、ひとつ間を置いてから「そうですね」と肯く。
「あなたがひとでよかった」
 その柔っこい笑みは裏腹、心臓をぞわりと撫ぜるもので。
「……君は」
 ひとではない君は、
「置いてかれちゃう?」
 その感情を憶えていたから、言葉尻が震えた。
 君は変わらず静かに笑って、その頭はどこにも振れず否定も肯定もなかったけれど。
「あなたをもう、置いていかずに済みそうでよかった」
 どうやら彼曰く、手を離してしまうのは僕の方らしい。
 両腕を伸ばして彼の背に抱きつく。はらりと落ちた薄いタオルケットはもう、必要なかった。
 ねえ。君さあ、そんな優しさはいらないよ。本当にいらない。せいぜいあと二年とか、ワガママ言うなら五年くらい……婚期、逃させちゃうかもだけど。いや人魚の婚期、もとい繁殖期っていつだ? ——まあとにかく、君の人生のちょっとの間だけ、ちょろまかさせてくれたら僕はもう大満足。それだけで身が千切れるほど幸せで、きっと一生分の貰える優しさを先取りしちゃうからさ。だから、だめだよ。こんな、君を置いてっちゃうようなヤツなんかに一生捧げたら、だめだよ。
 彼の背からゆるり下ろした腕はしかし、離れる間もなく捕らえられて、ぎゅうと両手をシーツに縫い止められる。互いの指かきの隙間すら許さないとばかりにぴっとり指を組まれて、タチの悪い甘え方に苦笑が漏れた。あぁもう、僕のことなんかすっかりバレバレってことじゃん。
 思わず「じゃあ」と希望に縋るような、いっそトドメを刺して欲しいような、そんなチグハグな心の問いがぽろ、とまろび出た。
「そのあと、アズール氏はさ、どこにいくの?」
 アズール氏の胸に顔を埋めている今は彼の表情がまったく伺えなくて、ささいな動きのひとつひとつに心臓が跳ねる。浅く吸った息のあと、さあ……と少し遠くを見る素振りをした彼は再び指先にきゅっと力を込めた。
「どこへいくのでしょうね」
 ひたり、案外冷たい君の温度に怯みつつ、心臓の音を確かめる。とくん、とくんと、少し僕よりもゆっくり動く鼓動に、どうしようもなく生きる時間の違いを感じた。コンマ数秒のズレがさみしくて堪らず頬を擦り付ける。カサついた肌にしっとりとした彼の肌が馴染んで心地いい。けれども当然決して交わることはなくて、薄皮一枚隔てた先に置き去りにする君。ねえやっぱり、そんなことできないよ。だってそんなの、すごくさみしい。ぜったいさみしい。
「イデアさん」
 組んでいた両の手がするりと緩んで、あ、と名残惜しげな自分の声がつい漏れてしまう。アズール氏の顔を見上げるとさっきのままに優しげな——いやちょっといたずらっぽくもあるな、こんにゃろう。
 いつの間にか、所在をなくした左の掌は彼の右の掌と合わさっていた。
「ずっと一緒にいますよ」
 掌のすれ違いざま、小指同士が頼りなく絡む。宙の手にはもう何の支えもなくて、指一本、ほんの少し僕が力を抜けば立ち消えてしまう約束。
 なんだって君らしくないのに、一番君らしい、ずるいずるい約束だった。
 一枚ばかしの薄っぺらい契約書はない。一本きりの運命の糸もない。一瞬の吐息と、一擦りのふれあい。それだけ。それで十分だった。それだけで生きていけると思った。それ以上もらったらきっと、うっかり今すぐ死んじゃいたくなっちゃうと思った。だから、これくらいがちょうどよかった。
「繰り返しますから」
 離れかけた小指がまた、願いを込めるように握られて。
「ずっと一緒にいます」
 瞬きの夢の続きが、またちかちかと瞬いて。
「この身が尽きても、尽きなくとも、ずっと」
 そういう君だから、本当に残酷で、本当に仕方がなくって、

 

 ちょっとまばたきして、涙をシーツの海に誤魔化した。

 

log : 2022.01.21