ねじれた「善」と「悪」

目次

 

 

0.注意書き

※2020.09.01「星に願いを」イベント前編配信時に書いたものです。
twst星願イベントから、twst世界における善悪観念についての妄言になります。
本編、イベント、パーソナルストーリーのネタバレ多々あります。
ストーリー全然こなしきれていないので、食い違い多々あるかもです。
トレイ先輩の内面の幻覚が激しいです。
優しい面倒見のいいお兄さんトレイが好きな人は逃げてください。
妄想5億%の強引な妄言になります。

 

1.子どものための「善」と「悪」

 最初、どうしてトレイがこの面子に割り込むのか全然わからなかった。
 ピノキオというキャラクターの側面をなぞって、不良少年から更生しようと頑張るデュースと、人形から本物の子どもになりたいオルト。オルトのついででイデアがゼペットさんかな? でもやっぱりトレイは何処にも当てはまらない。

 ここで映画「ピノキオ」の主題を思い返す。「子どものための『善』と『悪』」について全編にわたり語られている。子ども向けの倫理アニメと言ってもいい。「良い子」の願いは叶い、「悪い子」は皆ロバになる。「ピノキオ」においての「善」は、勇敢で正直で思いやりがあること、きちんと学校に行くこと。「悪」は金儲け、酒タバコ、飽食、名声、暴力などなど、いわゆる悪い大人への道だ。
 子どもが分かりやすいように大げさに描かれているが、「悪」とは心を欲求のままに任せることを指す。子どもたちをロバにした悪役は、「子どもだからって好き勝手した報いだ!」と言い放つ。生まれたばかりの無垢なピノキオでさえ、むしろだからこそ誘惑される欲求こそが「悪」だ。
 この善悪において、欲求を隠そうとしない「子どもたち」は「悪」に、欲求を良心でくるんだ「大人たち」は「善」となることだろう。

 作中で何度もピノキオが試みる「学校へ行く」という目的。最初に提示されたのは、ゼペットが初めてピノキオと共に眠るシーンだ。

「明日 お前は学校に行く」

「なぜ?」

「いろんなことを勉強して 賢くなるんだ」

「なぜ?」

「それはつまり……」

 (映画「ピノキオ」より)

 ここでゼペットは眠りに落ちてしまうが、きっとその言葉の続き、ピノキオの道のゴールは「立派な大人」になることだろう。学校とは、子どもたちを社会に適応させて、大人にする場所だからだ。社会の害になる「子どもの欲求」を、社会の易となる「大人の良心」へと塗り替える場所だ。

 

2.トレイとイデア、「大人」と「子ども」の対比

 話は戻って、何故この「ピノキオ」をなぞったストーリーにトレイが出てきたのか。
 それはトレイとイデアが「ピノキオ」における「善」と「悪」との対比をなぞっているからだと考えた。
 二人は性質が合理的で、「兄」という同じ役割を持ちながら、その在り方があまりにも違う。四人の中で一番「子ども」なイデア。四人の中で一番「大人」なトレイ。四人と縛らなくてもいいかもしれない。それくらい対照的な二人だ。

 トレイは自営業で共働きの両親の長男。何人かの弟妹がいる。過去についての言及、家庭環境を見るに、物心着く前にすでに「兄」という役割を与えられてしまったのではないか、と仮定する。
 仕事に奔走する親の代わりにたくさんの弟妹の世話を担い、両親の仕事の手伝いまでこなしていた。「子ども」であるときから、「大人」であることを余儀なくされた。家族のために、自分の身を切り続けてきた。欲しいもの、やりたいこと、泣きたいこと、怒りたいこと、「子ども」の全てを封じ込めて、諦めて、不幸にもトレイは要領良く合理的に物事をこなせた。

 ここで「トレイ」という人間はアイデンティティを確立し損ねたのではないだろうか。「子ども」の時代を過ごせなかった彼は、自分の好きなもの、やりたいこと、譲りたくないもの、そういった欲求を全て切り捨ててしまった。その結果、残った自己は「兄」という役割をもった虚無だ。彼の’’普通’‘への憧れは、執着と言っても差し支えがないほどに、繰り返しストーリー内で語られる。それは自己のない自分が、「’’普通’’の男」というなんともあやふやな、人間の平均値に縋るしか道がないからではないだろうか?

 彼の行動原理の軸は「皆にとって最善の選択」を「一番楽に」達成すること。
彼が唯一持つ「楽に」という欲求は、忙しなく身を切ることへの疲れから相対する願望だ。一番楽な道は無論、そんな役割を投げ捨てることだが、彼にはそれが出来ない。役割を捨てるということは自分自身を捨てることと同義であるから。だから一番合理的に、楽な方法で、と努める。

 それゆえに、家族という括りを抜けた学園内においても、彼の「大人」という役割は変わることがない。誰に頼まれてもいないのに、甲斐甲斐しく周囲の世話を焼いたり、リドルの暴君スイッチが入らないようにいたる所で手を回す。この度のイベントで「一人旅に出たい」というジャミルの願いに同意したトレイは、ジャミルと同じように自身に課された「役割」を取っ払ってしまいたい気持ちを匂わせた。けれど、ジャミルはカリムから距離を取れば解放されるのに対し、トレイは例え環境が変わろうと、家庭内でも学園内でも旅に出ても、「大人」として在り続けてしまうだろう。

 トレイの実験着エピソード「’’普通’’の男だよ」は一見「面倒見のいい皆のお兄さん」なトレイの内面が少し覗けるようになっている。
 長い間手間を惜しまずに、リドルのイチゴタルトのために育てた傑作のイチゴを、困ったジェイドを見かねて、あっさりと見も知らぬ生徒のケーキのために手放す。
 これを見てルークは彼を「善人」だと評したが、彼自身は全く善き行いをしたとは思っていない。ただ合理的に、周りの人間が円滑に事を進められる最善の策を取っただけ。その「皆の最善」には「自己」が一切入っていない。だからこそ自分が大切に育てたイチゴを「また育てればいいだけ」とこんなにもあっさりと渡すことができる。

 その後は自分のイチゴと引き換えにと取引したジェイドから、有名パティシエのイチゴタルトを受け取りお茶会に間に合わせる。
 トレイの愛情をかけたタルトの方が、リドルは喜んだのでは?と問うたルークに、トレイは「はは、まさか」と返す。リドルは舌はそれほど肥えていない、有名店のタルトと知れば喜ぶ、俺も手作りしなくて済む、過程や愛情はどうでもいい……トレイは別にリドルのためにイチゴを育てていたわけではなく、リドルの暴君スイッチが入らないためーー「皆の最善」のお茶会のための一番合理的な策として育てていたからだ。そこに愛情などという「自己」は存在しない。

 実験着に限らず、トレイはよく善人であるとか大人であるという評価を得る。これは社会における自身の役割を蔑ろにするような自己欲求ーー悪性を一切持たないという、これ以上ない善性を有しているからだ。実際彼は常日頃、自己をほとんど出すことなく、「大人」として学園という社会をずっと調整し続けている。

 対してイデアは、決して我を譲らない「子ども」だ。トレイと同じ「兄」という役割があっても、「寮長」という責任があっても、何よりも先立つものはまず「自己」だ。弟のオルトを深く大切に思い、兄として振舞うことを努力しているが、弟の願いよりも自身のこだわり、気持ちを優先することもままある。役割だって、自分の気に食わないことであればいつだって投げ捨ててしまう。彼はただ、自分の思う合理性を、他人に譲らず遂行するだけだ。自分の世界を守るためであれば、彼は外界の全てを拒否してしまう。そういったひどくか弱い自分を、しかし強く持ち続ける自己の意思を、イデアは有している。
 協調性がなく、自分勝手で、融通がきかず、社会の妨げとなるーーまるで「子ども」のままのイデアは、いわゆる「悪」だ。

 「大人」であり「善」であるトレイ。「子ども」であり「悪」であるイデア。この二人の相性が最悪なのは自明の理だろう。
 今回、トレイもイデアもスターゲイザーという重労働な役割を理不尽に押し付けられた。それでもトレイは皆のために「最善」を尽くすが、イデアはそれを嫌だとハッキリ態度に出して投げ出してしまう。トレイがぼやく「……はぁ。イグニハイドの寮長ともあろう者が……。まるで子どもの駄々だな。」というセリフは、相当の呆れを含んでいそうだ。

 さて、ここで私ははた、と疑問に思ってしまった。果たしてトレイは本当に「善」であり、イデアは本当に「悪」であるのか。この世界で優先されるべきはトレイの意思で、切り捨てられるべきは、イデアの意思なのだろうか。

 

3.ねじれた「善」と「悪」

 ここから先は「ツイステッドワンダーランド」という世界自体についての考察である。
 ヘルプによれば、ツイステッドワンダーランドとは「見知った世界の先にあるねじれ歪んだ不思議な世界」。ここでねじれているものとは一体何か? それはおそらく「善」と「悪」だろう。

 ディズニー世界の中で「悪」とされてきた7人のヴィランは、ツイステッドワンダーランドにおいてはグレートセブンという7人の偉人として登場し、生徒たちは彼らに憧れを抱いている。悪が善に、善が悪に、見方が変われば立場が違えば、善悪とはそんなあやふやなものだ。そんな意図が学園の背景やおしゃべりに散りばめられている。
 この学園では「悪」こそが善きものとされている。しかしそれでは前述した学校の機能ーー「子どもたちを社会に適応させて、大人にすること」が達成し得ないのではないか?

 そこでカウンターとして喚び出されたのが「監督生」という善性だ。学園長は監督生に協調性という善性を皆に付与するよう求めた。個人主義で「子ども」である生徒たちが、他者を慮る「大人」になれるように。
 この目論見は正しく、監督生はシナリオ内で生徒らの助けや協力を呼びかける。そして、トラブルに巻き込まれてはオーバーブロットを起こした生徒を皆で助けるという一連の流れが出来上がった。

 ここで、そもそものオーバーブロットの源を思い返す。リドル、レオナ、アズール、ジャミル……彼らはなぜオーバーブロットという「悪役」を受け持つこととなったのか。
 オーバーブロットから解放される際には必ず、彼らの幼少期の願いが語られる。

「好きなものを食べてみたかった」

「一番になりたかった」

「一人ぼっちはいやだった」

「自由になりたかった」
 
 押し込め過ぎた「子どもの欲求」は行き場を無くし、「悪」となって表出する。しかし、それらは本当に悪であったのだろうか? 結果が「悪」でも、当たり前の欲求が叶えられなかった彼らの葛藤を単純に「悪」と断じることは難しい。

 結局のところ、ツイステッドワンダーランドにおいて、皆大団円のハッピーエンドは迎え難い。たとえ自己を変革しても、理不尽な社会は変わらないままだ。自分が思うままに生きることは決して容易ではない。
 それでも、あの時閉じ込めて、蹲ったままの自分を見つけてあげることができたら。その自分が声を上げて泣いて、願いを認めて、抱きしめてあげられたら。
 自分が、大人が、赦さなかった「悪」を、もし自分の内で赦すことが出来たら、そうして彼らはようやく、一息つけるようになるのだろう。

 

4.まとめーー「子ども」であることは「悪」なのか?

 ツイステッドワンダーランドにおけるねじれた「善」と「悪」は、私自身にも問いかけられているように感じる。悪を為すも善を為すも、同じ人の身から生まれるものだ。それなのに、悪事の源は当人の悪性によるものなのか? 悪人を悪人たらしめるものは何なのか? 今作品は、それらが丁寧に語られている物語だ。
 最初に語った、子どものための「善」と「悪」ーー欲求を隠そうとしない「子どもたち」は「悪」に、欲求を良心でくるんだ「大人たち」は「善」とする社会。それが叶ったとして、それは人の在り方として本当に正しいか。そのような二元論で割り切られた正規の物語の世界は、本当に正しい世界か。

 この学園を卒業したとき、彼らは「善」であるのか、はたまた「悪」であるのか、この物語の先が楽しみでならない。

 

 

 長文、乱文失礼しました。かなり極端で強引な話の持って行き方ですみません……ここまで読んでくださった方とかいるか? いるかな? いたら握手してください! いろんな解釈吸うのが人生の楽しみなのでここってこうなんじゃ? とかあったらメッセージください! よろしくお願いします!
 

 

Log : 2020.09.01

 

後編配信時マロ返信追記

 悪が貫き通された、すごく私もそう思います……!いやほんとマシュ主様のご考察、滅茶苦茶うんうん頷いております……

 今回イベントをやり終えて、かなりイレギュラー要素が強かったと思いました。今までのイベントは学園長が皆の尻を無理やり叩いてやらせるという構図ばかりでしたが、今回のキーパーソン四人のうち、三人は学園長に協力的でした。星イベで「大人」に反対し続けたのは、「悪」であったのは、たった1人、イデアだけでした。そんな中ストーリー中盤で、善悪がひっくり返るのですよね……ええ……展開が天才すぎる……

 悪天候の予想により、ここで学園長が開催に反対するというイレギュラーが起きました。善悪の起点が反転しちゃったんですね。トレイ先輩も「大人」の意見に賛同しますが、デュースくんとオルトくんは自身のそれぞれの「願い」のため、開催に向けて頑張っていたので、やはりやり遂げたいという自分の気持ちを出しました。

 ここであんなにも星送りが嫌だ嫌だと言っていたイデアは、学園長に賛同するはずーーのところ、弟の「願い」のために、学園長の「善」を真っ向から否定する「悪」のままであり続けたのですね……イデアの「何が何でも絶対に開催させる」という強い強い意志がなければ、今回の星送りは開催中止と相成っていました。彼は運命に身を任せず、自分の手で選択をする、それをやり遂げようとする強さを誰よりも持っています。星イベはそんな、イデアという人間の意志の強さが存分に描かれた、も〜本当にいいシナリオだったな〜!って涙を流しています……