『レクイエム・フォー・ドリーム』(Requiem for a Dream)

『レクイエム・フォー・ドリーム』(Requiem for a Dream)
2000年 / アメリカ / ダーレン・アロノフスキー

覚醒剤だけはマジで絶対手を出さんとこ…になる映画。

ビジュアルとサウンドの切り返し、ブラーや手ブレ、スローと早送りといった様々な手法が面白かった。覚醒剤にはまり込む人間の感覚を擬似体験できる。泣いたり怒鳴ったりした後に薬のカットが入り、パッと瞳孔ガン開きになる落差の演技にヒェ…となる。現実と幻覚がだんだんと入り混じっていく、混線の描き方がすごい。冷蔵庫怖すぎて泣きそうだった。

破滅に向かっていく人々をただ見つめ続けるのって本当につらい。うだつの上がらない毎日。夢のような出来事なんて起こるわけがなくて、ぐるぐると抜け出せない閉塞感。じんわりと日々を滲み浸していく絶望の色。このまま生きていてどうするの?こんな自分に何の意味があるの?誰が必要としてくれるの?っていう、きっと誰にでもある気持ちを魔法のように塗り替えてくれる薬。”夢”=”薬”に縋るというか、必死でしがみつく人々を見て、ああ、私ももし彼らのように孤独であったら、ハリーのように破滅が分かりきっていたとしても、今そこにある現実から逃げるためだけに、こんなものにしがみついてしまうんだろなって。

虚構の装飾で飾り付けた空ばかり見て、足元にあった本当に大切なものを忘れてしまった。世界中に認めて欲しい気持ちと、誰かをただ愛していた気持ち、のふたつの対比が最初から最後までを通して語られていたなと思う。サラとハリー。ハリーとマリオン。タイロンと母。夫に先立たれ、独りの家でテレビに出るという夢に執着するサラの「寂しいのよ。誰が私を必要としてくれるの?」のところの言葉がうー…となりました。

「アメリカン・ビューティー」も前年、1999年の映画。この頃のアメリカはアメリカン・ドリーム…経済的、物質的豊かさの”夢”への懐疑が、国民の間にわたっていたのだろうと思う。1990年代、バブル的景気により失業者も少なく、ソ連解体により揺るぎない経済大国1位であった、世界一豊かなアメリカで、いったい”幸せ”ってなんなんだっけ?ということを、当時の人々は考え続けていたし、今もずっと私たちは考えてしまうのだろうなと思う。この映画では薬として描かれているけれど、きっと金も同じことだろうと思う。立派になるよと言った幼いタイロンを抱きしめて告げた母の「有名にならなくたって、お母さんを好きでいてくれるだけでいいのよ」。これがこの映画の中で、みんなに一番に伝えてあげたかったことかなと、最後母親に縋るように丸く寝転ぶタイロンを見て思った。